金剛隊


イ56潜 イ47潜 イ36潜 イ53潜 イ58潜 イ48潜

(昭和19年12月1日〜昭和20年1月9日出撃)

>> 当時の日本の状況




イ47・イ56潜短刀伝授記念(筑紫丸第6艦隊司令部)
 

イ56潜・搭乗員


イ56潜艦上より見送に応える出撃隊員(柿崎中尉、前田中尉、古川上曹、山口上曹)


壮途に上るイ56潜
 

アドミラルティ諸島に向かうも敵警戒厳重のため攻撃不能。S.20.2.3.帰還




イ47潜



搭乗員・左より村松上曹、川久保中尉、原中尉、佐藤一曹

S.20.1.12.ニューギニア、ホーランディア(フンボルト湾)泊地を攻撃。
川久保輝夫中尉(海兵72)、原敦郎中尉(早大)、村松實上曹(宇刈村小高等科)、佐藤勝美一曹(金山青年校)、発進戦死。潜水艦は一月末帰還。




川久保輝夫



回天金剛隊の歌

一、沖の島過ぎ祖国を離 敵を索めて浪万里

空母戦艦唯一撃と 今ぞ征で立つ金剛隊

二、流れも清き湊川の 旗の光をいま承けて

先に征きたる菊水隊の 挙げし戦果に続かばや

三、聖戦(おおみいくさ)も四年の春を 南の海に迎えつつ

必勝のとき今来れりと 先ず魁けん金剛隊

四、若き血は沸き肉踊るかな 挺身必殺醜敵を

砕き沈めて千代八千代にも すめらみくにを護りなん

すめらみくにを護りなん

>> 「河合中尉の残したアルバム」より





イ36・53・58潜水出撃記念
 

イ36潜・搭乗員



潜艦上の長官訓示


S.20.1.12.ウルシー環礁(南泊地)を攻撃。
搭乗員・加賀谷武大尉(海兵71)、都所静世中尉(海機53)、本井文哉少尉(海機54)、福本百合満上曹、発進戦死。



都所静世



兄・錦也への手紙

幼い時からのことが走馬灯の如く脳裡を走り過ぎます。兄さん、二十一年の間、ほんとうに有難う。嬉しいにつけ悲しいにつけ、想い出されるのは矢張り血肉分けた兄でした、弟でした。清江(戦死した弟)も逝き、今私もお先に征きます。姉さん(兄嫁)によろしく、御幸福をお祈り致します

叔母への手紙

いろいろ有難うございました。では征きます。心気爽快、何一つ思い残すことはありません。あとはよろしくお願い致します。弟と同じ幸福感で一杯です。

お母さんの処、清江の処へ行く日はあと十二日、最後にぶつかる時は「お母さん」と叫んで死に度い。真のお母さんが欲しかった。先日「母子草」という小説を読みました。いいお母さん、しかしその代わりやさしいお姉さん(兄嫁)を持ったことはせめてもの幸せでした。

叔母さまの楽しみが一つ無くなっても欣んで下さい。

最後に御健康と御多幸をお祈り申上げます。御恩の万分の一も報い得ず死ぬのを済まなく想います

出撃中の艦内で義姉に宛てた最後の手紙

・・母親もなく、帰るべき家もなく、もちろん子もない私にはあらためて決心などぜずとも、大君のためにはよろこんで、真先に死ねる人間ですが、姉上様はこの短い私の生涯に母の如く、また真の姉の如く、大きな光明を与えて下さいました。いつも心のどこかうつろな心持ちでいた私、家庭的愛に飢えていた私が、姉上様がある(出来る)と知ったときのよろこび、今にしてはっきり申します。

姉上様、それがそれがどんなに嬉しいものであったか御想像もつきますまい。恐らく弟も私と同じ気持ちで死んで行ったに相違ありません。

幸福という青い鳥は、決して他に居るものではありません。自分の家の木の枝にいました。真の幸福は他より来らず、自己の心の中に見ゆるなりとか、今その鳥を見つけました。これで姉上様に赤ちゃんがあるのでしたら、もう何も申しあげることはないのですが。(中略)

それにつけてもいたいけな子供等を護らねばなりません。私は玲ちゃんや美ちゃんを見る度にいつも思いました。こんな可愛い純真無垢な子供を洋鬼から絶対に守らねばならない。私は国のためというよりむしろこの可憐な子供たちのために死のうと思いました。

生意気なようですが、無に近い心境です。攻撃決行の日は日一日と迫って参りますが、別に急ぐでもなく日々平常です。太陽にあたらないのでだんだんと食欲もなくなり、やせて肌が白くなって来ましたが、日々訓練整備のかたわらトランプをやったり、蓄音器に暇をつぶしています。

今、六日の02:45なのですが、一体午前の二時四十五分やら、午後の二時四十五分やら兎に角時の観念は無くなります。

姉上様もうお休みのことでしょうね。今総員配置につけがありました。ではさようならします。姉上様の末永く御幸福であります様、南海の中より申上げます。




イ53潜・搭乗員



搭乗員・左より久住中尉、伊東中尉、久家少尉、有森上曹。


乗り組み員と共に
左より前列(搭乗員):久住中尉、伊東少尉、久家少尉、有森上曹
中列:半田機関長、桑島水雷長、大村軍医長、近藤掌水雷長、小家電機長
後列:山田砲術長、中島機関長、宮林潜航長、豊増艦長、菱谷航海長、梅原機関長附


潜艦上の長官訓示


潜艦上から見送りに応える隊員たち。
 
S.20.1.12.パラオ、コスソル水道を攻撃。
久住宏中尉(海兵72)、伊東修中尉(海機54)、有森文吉上曹、発進戦死。久家少尉は回天故障のため発進不能。一月帰還。

 

*参考資料・久住宏*

朝日ソノラマ『人間魚雷回天』より/
神津直次(元回天四期予備学生隊員)


前列左より小林中尉(海機54)、伊東中尉(海機54)、川久保中尉(海兵72)。
後列左より橋口中尉(海兵72)、久住中尉(海兵72)、河合中尉(不死男・海兵72)


 
・・対潜学校で私と同期の渡部清は、中学では私より二年上、久住中尉と同級生だった。最近の彼の手紙には、
「(久住は)冗談一つ言わない長身で色白の温和しい生徒でした。川越中学から三年の時転向してきて・・。一言で言えば文人型で武人型ではありませんでしたから、彼が海軍兵学校に入学したのは実に意外なものを感じました。しかし積極的に自己主張するタイプではなかったのですが、心中では海兵志願が相当強かったものと想像できます」


東京府立九中七回生の「七生会会報」には田中一郎氏が次のように書いている。
「温和でねばり強い性格でたちまちクラスにとけこみ、誰からも親しまれて全く違和感は感じさせなかった」


大津島にいたとき、予備学生を殴ろうとする上級者(海兵71期)の前に立ちふさがり「待ってくれ」と制止したため、彼自身がめちゃくちゃに殴られ、ついに殴り倒された話は、下士官搭乗員の中で語りぐさになっている。

だが、ここに久住中尉のために一文を捧げるのは、先輩に対する礼儀でも、われわれをかばってくれたことに対するお礼の心からでもない。彼の死があまりに悲壮だったからだ。

・・彼の乗った回天は潜水艦を離れてまもなく、気筒爆発を起こして動かなくなってしまった。潜水艦内部から潜望鏡で回天の発進状況を見まもっていた潜水艦長の言によれば、突如、目の前が真っ赤にかがやいたという。潜水艦から至近距離での事故だった。久住艇は一度浮上したのち、海中深く沈んでいった。

気筒爆発を起こした回天は、多くは自然に浮上する。沈下したのは久住中尉自身の操作によるものである。彼は「このまま浮上すれば、敵に潜水艦の所在を教えることになる。自沈するほかない」と考え、ハッチを開け、艇内に海水を入れて、生きながら海底深く沈んでいったのだ。

苦しい訓練を続け、いよいよ敵を眼前にしながら、ついに壮図はならなかった。この悲劇になんたる沈着、なんたる自己犠牲。・・自爆してひとおもいに死ぬことすら許されず、生きながら沈んでいった久住中尉の死は、彼の崇高な精神を物語るものとして、長く記録にとどめておきたい・・。
 

久住宏



遺書

有史以来最大の危機に当り微力乍ら皇国守護の一礎石として帰らぬ数に入る二十余年御高恩に報ゆるに此の一筋道を以てするを人の子として深く御詫び申し上げ候。

皇国の存亡を決する大決戦に当り一塊の肉弾幸に敵艦を−すを得ば、先立つ罪は許され度、此の度の挙もとより使命の重大なる比するに類無く、単なる一壮挙には決して無之、生死を越えて固く成功を期し居り候。

兄上には相馬ヶ原にて別れていらい二年有余なるも、魂は何時も通じ、ヘ隔つといえども何の不安も無之候。御両親様には私の早く逝きたるに就ては、呉々も御落胆ある事無く、私は無上の喜に燃えて心中一点の雲無く征きたるなれば、何卒幸福なる子と思し召され度、祖母上様と共にいよいよ御健やかに御暮し下さるよう祈り上げ候、歿後の処理に就ては別紙に認めたれば、然るべく、次に二三御願聞き置かれ度、第一に万ケ一此の度の挙が公にされ、私の事が表に出る如き事あらば、努めて固辞して決して世人の目に触れせしめず、騒がるる事無きやう、葬儀其の他の行事も努めて内輪にさるる様右固くお願い申上げ候。

又訪問者あるも進んで私の事に就て話さるるやうなる事の決して無きやう願わくば君ガ代守る無名の防人として南冥の海深く安らかに眠り度存じ居り候

>> 「河合中尉の残したアルバム」より


伊東修



海軍機関学校時代の日記から(昭和18年)

八月二日

今日は一家そろってハイキングに出掛けた。こんど帰省するや、母が一番乗り気になって計画してあったのは嬉しかった。

昨年は余が無理に母を連れ出したのだが、こんどは立場が反対の感がした。飯盒炊事を兄と二人でやり、母や姉にご馳走するのが余の楽しいことである。例年と異なり、どこでも飯盒炊事ができなくなったので、少し遠いが、箕面の野営場まで出掛けた。美しい緑に包まれた小川の辺で行う炊事はまったく愉快であり、冷たい小川の流れは気持ちが良かった。

配給制の今日、母は余に今日の喜びを得さしめんがため正月以来食糧の貯蔵に心掛けてくれた由、まことに有難いことだ。自分ながら旨い飯が出来、母が満足してくれた。余はこのようなことをすることが最も楽しい。まったく打ちとけて話し合う機会を見出せる。山は爽快な気分を起こさせる。人里離れたところへ一時でも行くことにより、余は自然の美しさを味わうことが出来、また来たるべき時に備える力を養うことができたように思う。

八月五日

・・日本はいま、大戦争を遂行しつつある。そして来るべき年には勇躍第一線に参加せねばならぬ身である。ただ一人で参加するのではない。上官の信頼すべき部下として、部下からは敬愛されるべき長として参加するのである。かく考えてくると、帰校後の生活は従来以上に緊張し、立派な生活たらしめなければならぬと痛感した。

蝉の声を聞くと、昆虫採集に夢中となり、勉強も夕食も忘れて遊んだ時代が思い出され、腕白、わがままな自分が、現在の如き身となり得たということを考えると、父母の有難さがしみじみと感じられた・・。

>> 「河合中尉の残したアルバム」より




イ58潜・搭乗員


潜艦上の長官訓示。搭乗員・石川中尉、工藤中尉、森二飛曹、三枝二飛曹。


艦上から見送りに応える隊員たち

S.20.1.12.グアム島アプラ港を攻撃。
石川誠三中尉(海兵72)、工藤義彦中尉(大分高商)、森稔二飛曹(北海道立滝川中)、三枝直二飛曹(県立甲府中)、発進戦死。




石川誠三




突撃直前の手配

決行期日に至る。搭乗員四人とも元気旺盛、アプラ港を震亥せしめんとす。月淡く星影疎にして一月初旬の大宮島(グァム島)眠れるがごとき姿態を浮かぶ。誰れか知る数刻後の大混乱を。大君の御為め、命のままにわれらは来るべきところに来たりたり。

人生二十有二年ただ夢のごとし。生の意義を本日一日に賭け、日米決戦の一奇鋒として−勢を一挙に挽回、以って帝国三千年の光輝ある歴史を永遠に守護せんとす。大日本は神国なり。神州不滅、吾等が後には幾千万の健児ありて、皇国防衛に身を捧げん。いざ行かむ人界の俗塵を振り払い悠久に輝く大義の天地へ!

出発四時間前記す。


「石川誠三は、兵学校では私と近い分隊にいました。同期625名のうち9番で入校した、頭脳明晰な人物です。彼は天真爛漫、形式慣習に拘泥することなくいつも自ら信ずる通りに振る舞う、誇り高き水戸っぽでした。」(小灘・兵72期)

>> 「河合中尉の残したアルバム」より




イ48潜


出撃記念


搭乗員・左より吉本中尉、豊住中尉、塚本少尉、井芹一曹。


艦上から見送りに応える隊員たち


壮途に就くイ48潜
 
ウルシーに向かうも消息不明。(撃沈されたものと推定)。搭乗員吉本健太郎中尉(海兵72)、豊住和寿中尉(海機53)、塚本太郎少尉(慶大)、井芹勝見二曹以下百八十名戦死。

*資料・回天特別攻撃隊潜水艦戦死者名簿/伊号第48潜*

>> 「頭上の狼、眼下の敵」





出撃に際し吉本、豊住各中尉を見送る海兵、海機コレス(同期)。後ろ左より福島、河合、宮崎中尉。
 


 
吉本健太郎



 前略、突然乍ら此の一書を以って最後の御別れを申上候、健太郎事今より決然死地に赴くべく不肖此の身を以って、帝国存亡の危急を救ふ一助とも相成らば武人の本懐正に之に過ぐるものなく甘んじて国家興隆の捨石となる覚悟に御座候、今日迄の御愛育に対し奉り厚く御礼を申上ぐると共に生前数々の不孝に対し御詫びの言葉を申述候
 二十二年間真に清き楽しき人生を送り又ここに無上の死処を得たる健太郎誠に果報者にして欣然死地に投ずべく候
 最後に御両親様の御健康銃後の御勤めを衷心より御祈申上候、健太郎幼少の頃より御世話に預りたる近隣の皆様並に小学校中学校時代御指導を賜りたる諸先生方に宜しく御伝言の程奉願上候
 尚死後の整理に就きては別紙を以って御依頼申上候

  昭和十九年十月                      頓首再拝

 御両親様                           健太郎

 

 若き日の夢は朝露に似たれども

   暫しとどめよ 白菊の花       健太郎


豊住和寿




拝啓、寒波相催す候と相成候処父上には益御壮健の事と拝察候、先日は又御手紙を戴き感謝に不堪候。不肖私儀元気益々旺盛訓練に励み居候間、何卒御放念被下度候。
 今や決戦の秋来りて皇国の興廃将に此の一戦に有之候。男と生れて二十有二年皇国の興廃を担って此の聖戦に参加し、皇恩の万分の一にも報い奉り得るは男子の本懐之に過ぐるものなし、我々肥後男子の血には勤皇菊池氏の忠節の誠流れ、千本槍の意気や将に昇天の気慨あり、されば我等の責務や重大にして愈以て尽忠報国の念を堅くする次第に御座候。牛島戦死し、入江中尉、合志、坂梨戦死せらるるやも知れずと聞き誠に残念至極に御座候。彼等の戦死公表になりますれば、何卒彼等の霊前に豊住は仇は必ず打つと出て征ったと御伝え被下度お願申上候。
 寿子も女子挺身隊として毎日働き居るとの由、益御指導御鞭撻あらんことを切に願上候。和史も愈いたづら盛で元気旺盛の事と存候。兄として弟に何等為す事もなく誠に申訳なきも弟の教育には私の最も御頼み申上げおく次第に御座候。今日迄私の帯刀せし軍刀一振和史に譲り渡す事に決心致したる次第に御座候、尚国の大事に際しては何卒御使用相成度、和史成年の暁には小生の魂と共に出陣せんことを今より祈り居る次第に御座候。
 親類の方にも手紙出すべき処その暇も無之、何卒宜しく御伝え下さるべく願上候。
 舞鶴の佐藤大佐にはくれぐれも宜しく御伝言を御頼み申上候。
 牛島様、井上様、川添様其の他御世話になりし五福校、済々黄の諸先生には厚く御礼申上候。最後に天皇陛下の万歳を三唱し敵撃滅に征く

 父上始め皆様の御健康祈りつつ

  昭和十九年十一月八日                 海軍中尉  豊住 和寿

                                 父上様
  鄙サ隸托シ